アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 1991年提訴

この文章は
「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 」(1991年提訴)の一部だが、「女子挺身隊」の問題が整理されている。

 
(一)「女子挺身隊」
日中戦争が全面戦争に拡大した後の一九三七年八月二四日、国は、「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定した。この国民精神総動員運動によって、女性の活動が奨励され、戦争への女性の動員が促進されることとなった。
一九四一年一一月、国民勤労報国協力令により一四年以上二五年未満の女子に一年につき三〇日以内の国民勤労報国隊による協力をさせることができるようになった(一九四三年六月、「三〇日」は「六〇日」に、一九四四年一一月、「二五年未満」は「四〇年未満」に改定された)。
一九四一年八月、国民徴用令第二次改定によって、女性の徴用は法的に可能となったが、強制的な性格を持つ女性の徴用は回避され、自主的参加という建前で女性の勤労動員が実施されていた。
一九四三年九月に、一七の職種について男子の就業が制限または禁止され、女性が就業13するようになり、これと並行して政府は「女子勤労動員ノ促進二関スル件」を決定し、「女子勤労挺身隊」を自主的に編成させて、女性の根こそぎ動員を図った。挺身隊は、一年ないし二年の長期にわたる動員であった。
一九四四年八月、女子挺身勤労令が、公布され、一年閥の挺身勤労を法律的に強制できるようになった。
朝鮮人女性については、国民登録がされていなかった関係で、原則として、法律的な強制力を持つ徴用は行われなかったが、官斡旋という強制力で動員が行われた。
(二)「女子挺身隊」という名の軍隊慰安婦
現在の韓国では、一般に「挺身隊」とは、軍隊慰安婦を指す。植民地朝鮮においても、軍需工場等に動員される「女子勤労挺身隊」が存在したが、「挺身隊」の名の下に軍隊慰安婦の狩り集めが行われたことから、「挺身隊」すなわち軍隊慰安婦との現在の韓国における認識を生じたのである。このことは、朝鮮人女性の人間としての尊厳を踏み躙った軍隊慰安婦政策が、国家総動員、勤労報国、挺身勤労を大義名分にして国家によって組織的に行われたことを物語っている。
右に述べたように軍隊慰安婦の狩り集めは、最も苛烈を極めた時期は、「女子挺身隊」、「女子愛国奉仕隊」等の名の下に行われたが、「挺身隊」の名を持たない以前から、朝鮮における軍隊慰安婦の狩り集めは、始まっていた。
一九一〇年代から朝鮮人女性を日本に売り飛ばし、売春をさせることが日常的に行われていたことを背景として、軍隊慰安婦は、一九三八年ころから、国、軍の関与の下で組織的に、狩り集められ、管理されるようになった。その数は、一〇万から二〇万人ともいわれ、その八割が朝鮮人女性であった。
軍は、遊廓の主人を利用して、戦線で営業させたが、戦線が拡大すると、その数が不足した。日本人女性は、銃後の大和撫子であり、出征兵士の家族や親族であって、軍隊慰安
婦として狩り集めたりすれば、皇軍兵士の士気に影響する。そのため、軍は、朝鮮人女性を軍隊慰安婦として積極的に狩り集めたのである。
すでに述べたように、朝鮮人男性が根こそぎ動員されるのと並行して、「朝鮮人女子挺身隊」、「女子愛国奉仕隊」等の名で、朝鮮人女性が集団的、暴力的、組織的に軍隊慰安婦として狩り集められていったのである