日本軍と阿片・・・2

「戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて,「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。」 
江口圭一『日中アヘン戦争』(岩波新書、1988年)

日中戦争当時、旧日本軍が中国東北部の旧満州国でアヘンの生産と販売を独占した上、治療した中毒患者の中国人を炭坑現場などで労働者として動員する計画を進めていたことが、愛知県立大(愛知県長久手町)の倉橋正直教授(65)=東洋史=の研究で分かった。  倉橋教授によると、アヘンの専売は国際条約違反だったが、日本は旧満州国の農村部でアヘンを生産させ、都市部で販売。その収益で占領地支配の財政や軍事費を支える仕組みを作っていた」
2008/8月17日 中日新聞


アヘン王、巨利の足跡 新資料、旧日本軍の販売原案も

日中戦争中、中国占領地でアヘン流通にかかわり「アヘン王」と呼ばれた里見甫(はじめ)(1896~1965)が、アヘンの取扱高などを自ら記した資料や、旧日本軍がアヘン販売の原案を作っていたことを示す資料が日本と中国で相次いで見つかった。取扱高は現在の物価で年560億円にのぼり、旧日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことがうかがえる。
 日本側の資料は「華中宏済善堂内容概記」で、国立国会図書館にある元大蔵官僚・毛里英於菟(もうり・ひでおと)の旧所蔵文書に含まれていた。

 この文書には、里見の中国名「李鳴」が記され、付属する文書に里見の署名がある。毛里は戦時総動員体制を推進した「革新官僚」の一員で、里見の友人だった。内容から42年後半の作成とみられる。

 文書によると、日本軍の上海占領とともに三井物産が中東からアヘンの輸入を開始。アヘン流通のため、日本が対中国政策のために置いた「興亜院」の主導で、「中華民国維新政府」内に部局が置かれ、民間の営業機関として宏済善堂が上海に設立された。
朝日新聞8/16



私は数年前に「日中アヘン戦争」(岩波新書、1988年)という本を書きました。いささか意表をつくタイトルで、はて、こんな戦争いつあったかしらと不審に思われた方もおられたようです。
 実は、日本は15年戦争の時期を通じて大量のアヘンを中国で販売し、それを中国支配の重要な手段としていました。アヘンはもちろん国際条約によって禁止されている麻薬ですが、日本は国策として中国でアヘンを売りまくりました。
 その目的は、一つは「満州国」をはじめとする傀儡政権の財源や謀略工作の資金を獲得すること、いま一つはアヘン中毒によって中国の抗戦力を麻痺させることでした。中国はこの日本のアヘン政策を「毒化政策」として非難しましたが、たしかにアヘン政策は毒ガス戦や細菌戦とならぶ日本の戦争犯罪でした。日中戦争は実は大規模なアヘン戦争であったという意味で、「日中アヘン戦争」と呼んだわけです。
「証言・日中アヘン戦争」江口圭一編から:



 国際連盟の前記の会議議事記録は、「有名な満州および熱河の魔窟と工場についで、天津日本人居留地は中国本部[中国中央部]および世界のヘロイン中心地となった。中国民族のみならず、世界のすべての他の国々が弱体化され、堕落させられるのはここから始まるのである。」 と述べており、日本は全世界の非難の矢面に立たされていた。
 しかし満州国の専売制などを別として、第一次世界大戦期から満州事変期の日本によるアヘン・麻薬の密造・密輸・密売は、現地の日本軍が関与したり保護をあたえたことはあっても、全体としてみれば、悪徳企業や不良日本人の私的な非行であり、犯行であった。この非行・犯行を、日本は日中戦争下に国策として公然と遂行するにいたる。
「世界における全非合法的白色麻薬の九割が日本製であって、天津の日本人居留地、天津周辺、大連市内あるいはその周辺において、あるいは満州、熱河および中国の他の諸都市において、必ず日本人か日本人の管理のもとに製造されるといっても、非常な的外れとはならないであろう。」
 重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・陸・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。
 アヘン政策の目的は、なによりも、その生産・販売によって巨利を獲得することにあった。アヘン収益の使途は、蒙彊政権の場合、表向きは政権維持の財源にあてられたことになっているが、その実態は秘密のベールに包まれて不明である。また収益とされる金額そのものも、どれだけ正確であるか、無条件には信用できない。ともかく、そこには巨額のブラック・マネーが獲得され、運用されたのである。


日章旗の掲揚はアヘンの販売が日本側によって公認されていることの標識であった。このことから日本側にしてみれば、とんだ勘違いが生じた。関東軍総参謀副長から敗戦直前に内閣総合計画局長官となった陸軍中将池田純久は「陸軍葬儀委員長」(1953年)のなかで、つぎのように書いている。
....[支那]事変当時、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。時々日本の国旗陵辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。
 戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて,「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。
江口圭一『日中アヘン戦争』(岩波新書、1988年)から
 




佐野眞一著『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)の書評から抜粋。 評者・松原隆一郎東京大学教授=社会経済学)
http://www.asahi.com/international/aan/review/review51.html
軍や政治家の資金源を「私心なく」差配



高度成長がなぜ可能だったか」と問い、その答えを「満州」に求めるという本書のスタンスは鋭い。東京で行き詰まった戦前の都市計画を、あたう限り理想に近づけたのが首都「新京」(現・長春)だったし、「山を削り海を埋める」神戸市の都市経営は、市長が旧満州での体験を反復したものだ。ところが佐野氏はむしろ戦時上海の暗部に注目し、「日中戦は20世紀の阿片(アヘン)戦争だった」というテーゼを、日中両国にまたがる阿片の一大シンジケートを差配した「阿片王」里見甫(はじめ)を通して論証しようと試みるのである。。

(略)

それにしても惹(ひ)かれるのは、会社のリストラ案で自分を筆頭に置くような、豪胆にして私心なき里見の人柄だ。中毒者の溢(あふ)れる中国では阿片を即時禁止ではなく漸禁させるべきだというのが後藤新平案だったから、民間より高純度で安価な阿片を必要悪として提供するのは一種の公共政策であった。儲(もう)けはすべて人にくれてやり一切私腹を肥やさなかった里見には、公務に殉じたという意識しかなかったのかもしれない。だが資金は岸信介児玉誉士夫らに流れ、戦後政界を拘束した。無私ゆえに悪徳が蔓延(はびこ)るという逆説が、この本の読みどころだ。