軍慰安婦資料 その5

 
すでに述べて来たように慰安婦を募集する際には、いろんなケースが考えられる。戦記、日記本でよく見られるのは、騙されたケースである。
騙して戦地に連れて行かれた後では逃げられない。ゆえに強制はそこでなされる。

<日本軍の関与と責任>
第一に、日本軍には、日本軍の命令によって慰安婦を集めた・・・と言う首謀者としての命令責任がある

この命令に従って、日本政府や総督府、警察などが体制を整え、下請けの業者や女衒が行動した場合でもこうした命令には責任があることは明らかである。


第二に、軍は騙されてつれてこられたような女性を保護し送り返そうとしなかった責任がある。
ごくまれに、送り返してもらえる女性もいたが、それは担当した者が良心的であった場合である。たいていは逃げられず、因果を含められたり、暴力的に強制され連日複数人数の相手をさせられる場合が多い。




資料名 山崎正男日記 1937年12月18日

解説 慰安所開設の様子、描写
山崎正男=(当時)少佐、第10軍参謀
南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』

支那方面軍の指揮下にあった第一〇軍も、方面軍の指示をうけて、すぐに軍慰安所の設置にとりかかっている。第一〇軍参謀山崎正男少佐の日記(一二月一八日付)には、湖州での軍慰安所設置の模様が生なましく記されている。

 先行した寺田中佐は,憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置した。最初四名だったが,本日より七名になった。未だ恐怖心があった為、集まりも悪く「サービス」も不良だったからか,生命の安全が確保されること,金銭を必ず支払うこと,酷使しないことが普及徹底すれば,逐次希望者も集まり始めたので,憲兵は百人位集るだろうと漏らした。別に告知を出した訳でもなく,入口に標識を立てたわけでもないのに,軍人は何処からか伝え聞いて大繁盛を呈し、どうかすると酷使に陥り注意しろとのことなり。先行して来られる寺田中佐は素より自ら実験済みとはいえ,本日到着された大阪少佐、仙頭大尉はこの話を聞き我慢できなくなったと見えて、憲兵隊長と早速出掛けて行った。約一時間半で帰って来られた。概ね満足のようだった。(同上)

これは、「看板も出していない」事から考えて、その手の商売人の手によるものではなく、直接軍が設営までしたものと見られる。「恐怖心」があり「サービスが悪い」のは商売女ではなく生娘を集めたからだろう。 「憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置した」と書かれており、又憲兵が 「百人位集るだろう」 と述べている事から考えても、軍の直営であったものと見られている。   


麻生哲夫 『証言━戦線女人考』 『うわさ』1957年 この著作物の最新版は『上海より上海へ』1993年

手記によれば1938年1月2日、軍慰安婦となるべき女性約100人の検診を行った。軍命令として「近く開設せらるる陸軍娯楽所のため目下、其美路沙挫小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行うべし」というのもであった。

またこの手記には「これに呼応して民間側にても、江湾鎮の一角に数件の慰安所が開設されるようになった」と書かれており、この慰安所が軍の経営であった事を証明しているのである。

さらに手記には

「朝鮮及びに北九州の各地より募集せられた連中であった。興味ある事には、朝の婦人の方は年齢の若く、肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが、北九州関係の分には既往にその道の商売をしていたものが大部分」 と言う。 
その数は朝鮮人80人、日本人20人

さらにこの記述の裏をとるために証言を集めた千田夏光氏は、田口栄造(仮名)のインタビューでこの100人の女性の内20人を集めたという証言を得ている。 (『従軍慰安婦』 千田夏光 1978)

これも軍の直営の例である。


 『憲友』 八一号の井上源吉  憲兵曹長(中支憲兵隊)
一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百-五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。 そこで、一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいですが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」

女性を集める際に軍命と称したり部隊名をかたったりする悪徳業者もいたようだ。

 『南海のあけぼの』  総山孝雄   少尉(近衛師団
シンガポールでの体験> 一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。

自発的に応募した娼婦達だが・・・・・・
この話には後日談がある


 従軍慰安婦』 吉見義明  

「しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず『女性の手足を寝台にしばりつけ』てつづけさせたということを兵士から聞いている。このような強制もあったのである。」(P.121~122)


これは、集める時には ≪募集≫ だが、営業する時には縛り付けた強制だったと言う事だ

  「俘虜記」  大岡昇平   1967

彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。


食べ物を与えない・・・という強制

 『ある軍属の物語』  河東三郎  1992  (海軍軍属設営隊員)
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。


戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされた女性のケース・・・・このケースが多いように思う
「看護婦」「賄い係」などの文句で騙されたのである。


日本軍には、「人権」という概念が乏しかった。それは、攻撃力はあっても防御力が乏しいゼロ戦の構造を見てもよく分かる。こうした構造から初期には活躍したゼロ戦パイロットの多くが戦死してしまった。ゆえに日本軍は、その「人間を無視した思想」ゆえに、負けるべくして負けたのである。

ある捕虜になった米軍兵士は、その待遇があまりにひどいので「捕虜の虐待である」と文句を言った。しかし、しばらくして考えを改めた。なぜなら、下級兵士達も彼らと同じ待遇を受けていたからだ。つまり日本軍の兵士達は「虐待を受けた捕虜」のような扱いを受けていたのである。
ろくなものを食べさせてもらえず、簡単に殴られていた。
兵士は捕虜である。
(それゆえに同じ捕虜のような待遇である軍慰安婦と情が交わり、恋が芽生え、戦地結婚した例もある)

明治憲法には一応の「人権」が謳われていた。
しかし、「不敬罪」などの法律は、この「人権」を単なる建前にしてしまった。「不敬罪」を取り締まる特高思想警察の拷問には、人権意識など微塵も見られない。普通選挙が行われた頃、同時に治安維持法が制定され特高の活動は活発になる。そしてこの特高と連動した軍が国の主導権を握ると「人権」などと言うものは、完全に忘れ去られて行く。 「戦争に勝つために」ひいては「軍のために」全てが行われるようになるのである。