科学者たちの言葉

 
われわれが観測しているのは、自然そのものでは無く、
我々の探求法に映し出された自然の姿だ。
 
                     W・ハイゼンベルク
 
物理学の理論的な基盤をこの(新しいタイプの)知識に適合させようと言う私の試みはことごとく失敗に終わった。その状態は言ってみれば、どこにもしっかりした土台が見つからないのに、以前なら拠り所にできた基盤が足元から取り払われるようだった。
 
                     アインシュタイン 『晩年に想う』
 
そもそもの出発点から、我々は自然と人間との論争に巻き込まれており、その中で科学はごく小さな役割しか果たさない。そのため世界を主体と客体、内的世界と外的世界、身体と魂に分ける通常の分割法はもはや存分とはいえず、われわれを種種の困難に陥れる。
 
                      W・ハイゼンベルク
 
自然を扱う科学にとって、研究の主体はもはや”自然それ自体”ではなく、人間の諮問に委ねられた自然である。
                         W・ハイゼンベルク
 
仏教の無碍という概念は、科学的なあらゆるブーツストラップ理論をはるかに超えたものである。だが、現代物理学には、大乗仏教の見方と驚くほどの類似を示すブーツストラップ仮説にもとづいた素粒子モデルがある。
 
                       (E・カプラ『タオ自然学』)
 
最近の我々のハドロン・ブーツストラップとの葛藤は、人間の知的働きの新たな形態の前触れにすぎないのかも知れない。物理学の領域を超えるだけではなく、「科学的」とさえいえないものの先がけかもしれない。
 
                       (J・チュー)
 
機械論的生物学は、いささかあいまいな立場に何年も逃げ込んでいる。生命体の形状とパターンは、これまでのところあまりよくわかっていない化学的、物理的相互作用から生じる複雑なパターンから生み出されるというのだ。そして未来のある時点でこれらの現象は通常の物理学と化学の言葉だけで説明できるようになるはずだ、と仮定されている。このように、引退まぎわのパラダイムは、厳密な機械論的解釈ではなく、カール・ホパーが『約束唯物論』と表現しているものになっているのだ。この『約束唯物論』というのは、現在のところ解釈できないけれど、将来には解釈できるといった、まるで約束手形を発行するに等しいものを言う。もっとも私に言わせれば、そのような約束手形は決して落ちる事はない。これらの問題点が、機械論的な方法論で解決できるとは思えないからだ。
 
                        R・シェルドレイク
 
 
 
 
 
主体と客体は、一つのものである。それらの境界が、物質科学の最近の成果で壊されたという事はできない。なぜなら、そんな境界など最初から存在しないからだ。
 
 W・ハイゼンベルク
( パラダイム・ブック』 C+Fコミニケーションズ編 P68より)

これを読んで 「禅問答みたいだ」 と感じた人は、正しく理解しています。
これはもう古代仏教の唯識論の世界とほとんど同じです。


また E・カプラはこう述べています。

粒子の全ての性質が観測手法によって決定されると言う事実は、物質界の基本構造が、究極的に我々がこの世界をどう見るかによって決定される、と言う事を意味するだろう。つまり、観測された物質のパターンは心のパターンの反映に他ならない、というわけである。

『ターニング・ポイント』 F・カプラ著 より )


つまり、我々の心がモノを規定しているのだと言う。

物質の根本を見つめていた素粒子物理が見出したのは、東洋宗教の世界でした。

こうして物理の世界でさえ 「モノと心の関係」 が新たに捉えられはじめ、その捉え方として「タオの道」や「気」「三界唯心」などの東洋思想の価値が再発見され始めたのです。

心を無視して、世界を探求して来た近代科学は、結局は、 心を考えなければならなくなったのだ・・・と言う事です。