アウグスティヌス

もっとも感銘を受けたのは次の文章である。
 
聖書においていかなる誤謬は無害であるか
 
「・・・・・たとえ聖書を読む別の人が、やはり真実ではあるが、それとは違った解釈をして、意見の一致しない場合があるにしても」
(『告白』第12巻18章)
 
「闇が淵の上にあった」を解釈して「しかしまったくの虚無だったのではありません。いかなる形相ももたない何か無形なものがあったのです。」(第三章3)
 
「私の重さは愛である」(第13巻9章)と述べて魂が愛によって上に上昇して行くことを述べているがこれに対して注釈はこう述べている。
 
「すべてのものは固有の重さによって自分の本来あるべき場所に向かうように、心の重さは愛であり、それによって自己のあるべき場所、すなわち神にむかう。もっとも人間の場合は、現在の結果、愛の方向は二つに分裂しているが、神に反する方向に行くかぎりその心は絶対に平穏を得ない。このこと自体、魂の本来のあり場所が神以外にはないことを証明する。しかし魂がこの不幸な分裂から救われてひたすら神に向かうためには、神のほうから魂にあわれみの霊がくだらなければならない。」
 
「わが父は、今に至るまではたらき給う」(「ヨハネ5/17)をアウグスティヌスは解釈して神の不断の創造について論じている。(「ラテン教父集34/304」)
 
トマスはアウグスティヌスに従って、天体の質量は一つの形相によって完全に現実化されているから、永遠に同じ形を保ち、下位の物体のように実体的な生成消滅をこうむる事はないと考えている。ゆえに天体は不変であるという。
アリストテレス『天界論』1巻3章/270、トマス『注釈』第6講)
 
 コリント2、6/14 「光と闇との間には何の交わりもない」・・・世界超越としての神
 
「主よ、あなたは我々のうちで、すべての業をなしたもうた」(『イザヤ』26章12節)・・・世界内在としての神
 
 
「悪霊の自然本性と神に由来しない醜い罪・・・」
トマスアキナス『神学大全』第八問 「神の諸事物における存在について」第一項4 
 
(・・の注釈12山田晶編)
「悪霊とは自らの意思によって神に背き堕落した天使である。堕落した後もそれは天使の知性的本性を保っている。かかる本性のものとして神から創造されたのであり、したがって悪霊の本性は神に由来するものである。
これに対し悪霊の有している『罪の醜さ』は、悪霊自身の意志に起因しているのであって神によるものではない。ゆえに神は悪霊を存在せしめている存在原因として悪霊の内にも内在するが、しかし神は悪霊の悪しき意志の原因ではないから、悪しき意志の主体として悪霊のうちには内在しない。」