日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 ー先史から現代まで

 

正しい歴史認識  

日韓歴史お勧め本

http://ecx.images-amazon.com/images/I/518CuKIeCeL._SL160_.jpg日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史
(2007/02/22)
歴史教育研究会

商品詳細を見る


日韓の歴史教育の専門家達が、日韓の友好関係を願って
共同して書いたこの本は
細かいところまで資料が充実しており
文句をつけるところが少ない

将来的には、これが日韓共通の歴史認識となるだろう
日韓史の概略を掴むには最適である

 
日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 ー先史から現代まで
 
近現代史より)
 

 
.  日本の満州侵略と朝鮮社会の動向

    世界恐慌の影響のもとで、日本はアジアでの利権を拡大するために、中国を侵略し、朝鮮の支配を再建強化した。これに対し朝鮮人は、農民運動、労働運動、文化運動、武装闘争など多様な民族運動を展開した。日本はこれらを徹底的に弾圧し、朝鮮でも言論・思想の統制を強めていった。

世界恐慌ブロック経済の形成
    1929年にニューヨークで株の暴落から始まった世界恐慌は、世界経済のブロック化を促した。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどの列強は、争って閉鎖的・排他的経済圏(ブロック)を形成していった。世界恐慌は日本にも波及した(昭和恐慌)。恐慌打開のために、日本は日満支経済ブロックの形成をめざすようになり、朝鮮もその構想の中に位置づけられた。このような世界のブロック化の流れは、1929年の国際秩序であったヴェルサイユ・ワシントン体制を崩壊させていった。

世界恐慌の日本・朝鮮への波及
    昭和恐慌で日本の米価が下落すると、日本では安価な朝鮮米が入ってくることに反対する運動が起こった。日本政府は本国の農村救済のために、朝鮮米の受け入れを規制し、1934年には朝鮮での産米増殖計画を中止した。
    朝鮮では、米、麦、大豆の価格が大幅に落ち込んだ。また、毎年春になると食料の農作物が不足し飢餓に陥っていたが(春窮)、1930年には春窮農家が全農家戸数のほぼ半数に達した。朝鮮でも農家経済が破綻して農民が没落して小作農が増加し、1920年代末から、1930年代にかけて小作争議は激しさを増した。1930年代前半の小作争議は、1920年代後半に比べて小規模となったが、一方で争議件数は増加していった。
    朝鮮総督府は、小作争議の激化に対応するために、1933年には小作調停令、1934年には農地令を交付して、地主と小作農の対立の緩和を図った。

満州事変と朝鮮
    1931年9月18日、関東軍奉天付近の柳条湖で南満州鉄道の路線を爆破し、これを中国軍によるものとして、翌日には奉天を占領した(柳条湖事件)。朝鮮軍も独断で中国国境を越えて進軍した。そして開戦半年後には、中国北東部の主要部分を占領した(満州事変)。日本による15年戦争の始まりであった。1932年3月、日本は、溥儀を元首とする傀儡国家「満州国」を建国した。国際社会は「満州国」を認定せず、日本は国際連盟を脱退して、極東の国際秩序であるワシントン体制に敵対した。以降、日本では5・15事件や2・26事件を契機にして、軍主導の国家を建設し、アジアで利益を獲得しようとする軍将校が中心となった軍部が急速に台頭してきた。
    日本の満州侵略は、1920年代以来の朝鮮農民の満州移住による朝鮮人と中国人の対立も利用した。1931年7月、万宝山事件が起こると、事件を誇大に報道したために、多くの在朝中国人が朝鮮人の報復を受けた。この事件は、朝鮮人移民を満州侵略の尖兵と位置づけた日本の政策と、朝鮮人を日本の侵略の尖兵とみなした中国の政策から引き起こされたものであり、朝鮮人移民や在朝中国人は日本と中国の対立に巻き込まれた存在でもあった。
    満州事変が始まると、朝鮮は満州侵略の基地、日本と満州をつなぐ中継地として重要性を増した。1933年には新京(長春)ー図們間(京図線)の鉄道が開通して、威鏡北道(ハムギョンプット)北部の朝鮮鉄道と接続した。さらに朝鮮の清津(チョンジン)と雄基(ウンギ)両港を経由して、新潟港や敦賀港などを結ぶ日満新交通路が作られた。また、京図線全通によって新津以北の朝鮮鉄道は南満州鉄道に経営が移管され、朝鮮と満州の経済的結びつきが強められた。

□在満朝鮮人
    朝鮮と清は国境地帯にたがいに自国民の住居を禁じていた。しかし、19世紀中頃、朝鮮の威鏡道(ハンギョンド)でしばしば飢饉が起こり、肥沃で広大な満州地域へ朝鮮人農民が定着し始めた。「間道(カンド)」は朝鮮語の発音とよく似た「墾島」あるいは「墾土」ともいったが、それは文字通り新天地を求めた農民の開拓した土地であった。韓国併合後、特に朝鮮北部地域の農民は故郷を追われ、大挙してこの地に移り開墾に励んだ。
    朝鮮で3・1独立運動が起こると、この地域でも朝鮮内に呼応して反日独立運動を展開した。一方、日本は抗日運動を取り締まろうと、間島開港場以外に、13ヶ所の警察分署を設置した。
    一方、間島を除いた満州に移住した朝鮮人も多かった。1920年には在満朝鮮人数が46万余人であり、1931年には63万余人になった。1932年の「満州国」樹立後、移住者が増加したので、1945年8月には、在満朝鮮人数が200余万人あまりに達した。このように朝鮮人の数が多かったので、大規模で長期的な在満抗日武装闘争が可能だったのである。
    1949年に中華人民共和国が成立すると、1952年9月、間島の朝鮮人居住地域は中国で初めての少数民族自治州である延辺朝鮮族自治州となった。自治州では、軍事・外交を除く全ての権限を持ち、民族の伝統文化を保存し、教育を独自に行っている
 

(注)
 
 昭和恐慌
1930年代初め、日本経済は政府の緊縮財政と世界恐慌の影響によって著しい不況に陥った。多くの企業が操業短縮や倒産に追い込まれ、労働強化や賃金引き下げ、さらには解雇が相次いだ。

関東軍
中国北東部に駐留した日本軍。元々は満州鉄道の警備のために置かれたが、第一次世界大戦後に関東軍となり、満州事変後は「満州国」を事実上支配した。

朝鮮軍
朝鮮に駐留した日本軍。2個師団が京城と羅南に司令部を置いていた。

溥儀(ふぎ)
1906〜1967。清朝最後の皇帝。1911年辛亥革命により退位したが、満州事変後に関東軍に担ぎ出されて、「満州国」執政に就任。34年に皇帝となった。
 



満州謀略に始まる戦争に巻き込まれる日本と朝鮮の人達