日韓 4

創氏改名に対する朝鮮人の反応
1. 創氏改名に積極的に呼応した事例 ーー 李光洙
    私が香山という氏を創設し、光郎という日本式な名に改めた動機は、畏れおおくも天皇の御名と読み方を同じくする氏名を持とうとする所からである。私は深く深くわが子孫と朝鮮民族の将来を考えた末に、こうすることが当然だという堅い信念に到達したためである。私は天皇の臣民である。私の子孫も天皇の臣民として生きるだろう。
『毎日日報』1940(昭和15)年2月20日付「創氏と私」
2. 創氏改名に抵抗した事例 ーー 柳健永
    悲しい。柳健永は千年古族である ーー。とうに国が滅びるとき死ぬこともできず、30年間の恥辱を受けてきたが、彼らの道理にはずれ人の道に背く行いは、聞くに耐えず見るに忍びず、ーーいまや血族の姓まで奪おうとする。ーー 同姓同本が互いに通婚し、異姓を養子に迎えて婿養子が自分の姓を捨てその家の姓を名乗るとは、これは禽獣の道を5000年の文化民族に強要するものだ。ーー私健永は、獣になって生きるよりは潔い死を選ぶ。
(宮田節子、金永達、梁泰○(上に日、下に天)『創氏改名明石書店、1992年より)

朝鮮人の戦争動員
    皇民化政策の最大の目的は、朝鮮人を日本人のように安心して戦争に動員することにあった。日本は、強い抗日意識を持ち独立運動を展開する朝鮮人に武器を持たせることをためらった。しかし、戦争が拡大して死傷者が増加したため多くの軍人が必要となった。まず、1938年に陸軍志願兵制度を実施した。そして、アジア太平洋戦争が本格化した1943年には海軍でも志願兵制を実施して、学徒志願兵を動員した。最終的には1944年教育制度を問わずに、朝鮮青年全体に対して徴兵制を実施した。1945年の解放当時、朝鮮人の日本軍人は20余万人であったが、戦死者まで含めればより一層多くのひとが動員された。
    また、日本は国民徴用令、女子挺身勤労令によって、朝鮮人を動員し、日本、東南アジア、サハリンなどで労働させた。朝鮮人は賃金もきちんと受け取れず、きつく危険な仕事に動員された。日本政府によれば、1939年から1945年までで約72万人が動員された。
    また、日本の軍人・憲兵・官吏・施設業者などが、8万人から20万人と推定される朝鮮の女性を戦地に連行し、日本軍「慰安婦」として酷使した。
    朝鮮総督府は「内鮮不平等の撤廃」や「朝鮮人大東亜共栄圏の中核的指導者とする」などのスローガンで、朝鮮人知識層を取り込んで、朝鮮民衆を戦争に協力させた。戦争に協力した知識人は解放後には「親日派」として非難された。
    朝鮮総督府は物資の収奪を強化した。アジア太平洋戦争が始まると、あらゆる金属製品を強制的に納めさせた。農機具、食器、祭事用具はもちろん、教会と寺の鐘までも徴発して、戦争の武器の材料とした。軍糧確保のために、中断した産米増殖計画を再開し、米穀を供出させ食糧配給を実施した。しかし、食糧を確保できずに餓死の危機にさらされた朝鮮の農民の中には配給を求めて駐在所や面長に強訴したり供出を拒否する者も現れた。