安倍政権のいう「道徳教育」の不快さ

道徳とは何か?

それは人が生きる道を教えるものであり、古来東洋では、仏教や儒教の教えが道徳となった。

仏教は悪事をなした人は地獄に堕ちるが、対して涅槃は寂静であるとして、人格完成(仏となる事)を人生の目的とした。そこで「正しく観ること」が説かれ、「慈悲」が説かれ、「菩薩道」が説かれた。

一方では、孔子の説いた理想の人格である「君子」は、仁を中心とした徳を身につけなければならない。

こうした道徳は、「人の生きる道」を教えたものだが、それだけではなく、この道徳を守る事がなぜ必要なのか?という理由も示している。
西洋文明に多大な影響を与え、西洋人の道徳を滋養したキリスト教もそれは変わらない。地獄へ堕ちるのを防ぎ天国の門を開くためには、不品行をしてはならず、淫乱をしてはならない。隣人には愛をもち、人を許しなさい。
そうした諸々の教えが人々の生き方を教えて来たのである。


こうした道徳を脱骨転換して、安倍政権が「道徳教育」なるものを始めようとしている。しかし、何ら意味の無い押しつけにしかならないだろう。

それは「神を信じる」「天国と地獄を信じる」という中で初めて力を帯びて来る。もし悪事を犯す人が死んでも地獄に行かないなら、道徳を守る意味も、道徳を学ぶ意味もどこにあるのだろうか?
そのような意味はどこにもない。つまりそれは、各宗教の世界観とセットになっているのである。
しかし、神道にはそのような世界観もなければ、道徳を滋養し「生き方」を示す教えなどどこにもない。
そこで神道信者である安倍たちが、教えたい道徳とは、「忠義」「孝行」にかこつけた「戦前の国家主義の押しつけ」に他ならないだろう。彼の祖父が国家社会主義者であったように。

『正論』2月号で八木秀二や貝塚茂樹、柳沼良太らが対談して待望の教科書化で道徳教育はこうなる」という記事がある。帯には「道徳の検定教科書ができ、教員養成は質量ともに充実。議論はもういい。もはや迷わず実行あるのみだ」と書いてある。

この中で柳沼は、「これまでは子供達の道徳性を評価することはない、という前提があったが」「子供達の道徳性を正しく評価できない」などと述べている(P114)。つまりどの子が天国に行き、どの子が地獄に行くのかを学校の先生が測れるとでも言いたいのか?
しかし、ここでいう柳沼の言い分では「責任感」「思いやり・協力」「公共心・公徳心」などの10項目を挙げているが、これらは戦前の神道信者たちによって歪められた「修身」型の道徳に他ならない。だいたいこの柳沼は「思いやり」が学校の先生によって測れるとでも思っているのだろうか?
測る資格の無い者に、測らせ、教える資格の無い者が指導するなら子供は歪んで行くだろう。「徳」が無いものが「徳」を教えられる訳が無い。

その「徳の無い」最たるものが、安倍政権であり、第2次安倍政権では、「前言の誤魔化し」「歪曲」「言い逃れ」「議論を避け、数で押し切る事」「恥をしらない」「反対意見を無視する」・・・などの不道徳な品性を国民に示してしまっている。何よりも「従軍慰安婦」「南京虐殺」等を否定する事により、「どんな悪事でも、「証拠が無い」と誤魔化せば大丈夫だ。」というメッセージを国民に示している。
このような道徳性の劣る人達がいったいどんな「道徳」を国民に示せるというのだろうか?

いずれにせよ百田よろしく靖国的世界観の持ち主である安倍たちは、「特攻隊のように国に命を投げ出して奉仕するのは、最大の忠義であり、自己犠牲である」などと美化し始めるだろう事は想像に難くない。

いづれにせよ、国家が道徳を教えられるなどという思い上がりがこの国を滅ぼすだろう。