それは偶然起こるのか?


        それは偶然起こるのか?

東北地震は、M9・0級の地震だった。その大きな爪あとは、今なお消え去ってはいない。
M9以上の地震は「超巨大地震」と呼ばれている。そのエネルギーの膨大さについては言うまでもない。
世界的に見ても、この200年間に6度しか、起きていない規模である。

しかもこの超巨大地震は、1952年から1964年までの12年間に4回

そして2004年から今日までに2回

集中的に起こっているのである。

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1952年   カムチャッカ地震  (M9.0)

1957    アリューシャン   (M9.1)

1960    チリ沖       (M9.5)

1964    アラスカ      (M9.2)

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2004    スマトラ沖     (M9.0)  

           2010   チリ沖 ・・・・(M8.8)

2011    東北        (M9.0)

           2012、4   スマトラ沖   (M8.7)

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このような巨大地震の集中が偶然のものとは思えないが、科学には説明できる根拠がない。

根拠はないが、私たち自身の有り方が、こうした災害に関係しているのではないか、と感じることはあるだろう。それは心の非常に深い部分で感じており、だから昔の人は大災害が起こると政事を改めたり、大仏を造ったりしたのである。

この心の非常に深い部分で感じる事。その感覚をつかんでおくべきだ。なぜなら、そこが人間の本質=自分自身に至る部分だからである。19世紀から20世紀にかけての産業革命・技術革新は、「科学が発達すれば何んな問題でも解決できる」という一種の妄想を生んだ。これを科学万能主義と呼ぶが、その自然科学自体が、今日では大きく変化している。

14世紀、イタリアを中心とした文芸復興運動が今日の自然科学の呼び水になり、ベーコンやデカルトを経て自然科学は発達して行きます。やがて20世紀になると「機械論的人間論」にまで到達しました。

しかしもし人間を機械論的に見た場合、その尊厳はどうなるのでしょうか?キリスト教徒たちは「人間は神の子」「万物の霊長」として、これを根拠に唯一無二の人間の尊厳を唱って来たわけですが、もし人が機械のようなものなら、尊厳など否定されてしまうでしょう。



     2、自然科学の発達過程




      <近代科学のパラダイムを造った3人!!>  

このお方たちが考えた事は、人間の主観心を完全に排して、客観的に測定できる事だけを科学的探究としようじゃないか!?・・・と言うものです。最も客観的なのは数学ですから、現代科学とっては数学が重要な位置にある訳です。・・・でも現代ではもう客観的って昔ほどは、意味が無くなってきている。それは物理学の世界でさえそうなのです。  



      近代科学の父━ガリレオの実験科学   
          
 やがて近代科学のあけぼのがガリレオ(1564~1642)と共に始まった。近代科学の父と呼ばれるガリレオは、実験科学とその結果を数学による記述という新しい方法を見出した。 

「実験を客観的数字にして記録する」この辺りが、客観科学の父と言われる所以です。 
これはつまり、「真理は実験によって探求され、客観的数字によって記録、証明されるべきである」・・・と言う主張なのです。
 

       

        ベーコンの帰納法(経験論)  
    
それから、同時代のベーコン(1561~1626)も結論を検証する帰納法を編み出したのである。 

ベーコンは科学者でした。要するに「観察・実験を通して集めた個々の経験的事実から、それらに共通する普遍的な法則を求める」と言う主張です。 
ちなみに彼は「科学の目的は自然を拷問してその秘密をはかせる事だ」なんて言葉も残しています。 
  
 
 
 
         デカルト演繹法(理性論) 

ガリレオとベーコンによって新しい科学の手法が編み出されると、天文・物理などの自然科学は劇的に発達した。科学の時代であるこの時代に生まれたルネ・デカルトは、新しい思考体系を創った。『方法序説』は「人の理性を正しく働かせ科学における真理を探求する方法」と記されている。これは科学哲学と言えるもので後の科学の発展に多様な影響を与えた。 

デカルトは数学者でした。 
彼にとって「真理は、限定された経験を帰納する事ではなく、合理的理性により演繹する事による導き出されるものだ」・・・という主張です。 


このデカルトを始めとする合理主義が、最も影響が大きく、今日までの科学の背景となる機械論的宇宙観を提示しました。これには、当時流行った自動機械のイメージがあったと言う。世界を機械の集合体と見たのである。(『パラダイム・ブック』P36より)



 これは特に読まなくてもいいです ↓  
≪ウンチク≫ ; デカルトの機械論的世界認識
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)などの物理法則が宇宙を決定論的に支配していると言う。(『世界論』)アリストテレス以来の内在する形相を目的とした目的論的自然観を退け、宇宙はユークリッド幾何学に従うべきであり、アリストテレスの階層的なコスモスは存在しないとした。自然は接触(運動の原因としての衝突)と不可浸透性に基いて、あたかも機械であるかのように理性で理解出来るものとする自然観を提示した。これを、<機械論的宇宙観>と呼ぶ。
こうして数学者である彼は、客観的かつ力学的な法則の支配する客観的世界を考えた。
「宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達した」「地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則は同じである」 として、この宇宙は、理性によって客観的に理解しうるメカニズムによって決定論的に運行しているという。「ラプラスの悪魔」に象徴されるこの説は、科学の世界で長らく支配的であったが量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって否定されるようになった。



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ウンチク:機械論的宇宙観とは
超自然的な力の介在を否定する「機械論」は「生気論」や「目的論」を排して自然科学の発展の礎となった。
デカルトの機械論は、多くの信奉者を生み出し、ニュートンライプニッツらにも大きな影響を与えた。それはひとつの潮流となり、デカルトの死後100年近く経った後、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーが霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し、人間を精神と肉体機械とみるデカルト的二元論よりも機械論に徹底した生命観「人間機械論」を提唱した。
人間機械論』を提唱する著書には、フランスのラ・メトリの” L'homme-machine”がある。また、20世紀に生まれた人間機械論は、ノーバート・ウィーナーが書いた“The Human Use of Human Beings”がある。そして人間機械論が最高潮に達するのは、ドイツのG ・ロートである。


 
キューブリックの映画 『時計仕掛けのオレンジ』 は、この機械論的宇宙観をテーマとしていました
       

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ウンチク ; スピノザ
伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論を唱えたスピノザは、理神論者であった。神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしているとして後の啓蒙思想をリードしたのである。
 

結論;つまり20世紀までの近代科学はギリシャ哲学をパラダイムとして発達して来たのでした。

(つづく)