遊郭は神社から生まれた




●深川には、著名な場所だけでも七ヵ所の岡場所かおり、それらはすべて富岡八幡宮前を中心に点在していた。

● 元来日本の神々は、性をタブー視するキリスト教とは違い、陰陽の合一に五穀豊穣のイメージをかさねて見て来たわけで、岡揚所のにぎわいは神仏の心に障るところはひとつもないと言ってもいいだろう。

本来仏教では「邪淫を禁止」していたのであり、釈迦は出家していらい性交とは無縁な生活を送り、門徒たちにもそれを禁じた。ところが日本に伝来した仏教は日本化してしまい、こうした禁を厳密に守らなくなったのである。こうしてお寺の前に遊郭が並び、女人禁制のはずの比叡山に女性が住んでいたという話になる。仏教がこのようにして堕落の道を辿ったのは日本史の中の汚点であろう。
しかし、神社には元々、「性の禁止事項」がなかったどころか、それが祭りだったのだということをこのブログでは再三述べて来た。


藤沢周平枝川公一共著『深川江戸散歩』「夜ごとの明かり」 p48

 町を縫う水路、物をはこび、人をはこぶ舟の行き来は、深川の暇々に水辺の暇といった一種独特の風情をつけ加えていたに違いない。春の草花が咲き茨の蔓がはう岸辺には、柳なども植えら
れたかも知れず、河岸の荷揚げ揚や、船宿の舟着き揚はしじゅうにぎわい、そのそばを時には燕が飛びすぎたろうし、また油堀の一直線の水路は、日暮れには江戸の町のむこうに落ちる日に赤々と染まったかも知れない。
 このようなむかしの深川についての想像は、たしかに創作意欲を刺戟するものだが、これだけでただちに心惹かれる小説世界がうかび上がって来るわけではない。この風景に、深川の岡揚所のにぎわいというものを加えて、はじめてこの土地を舞台にした物語が、具体的に見えて来るように思うことがしばしばある。もっとも岡揚所のにぎわいは、必ずしも物語の中心である必要はない。
 小説によっては、単に物語の背景でしかないという場合もあって、それはべつにめずらしいことではない。しかしその場合でも、背景に門前仲町を中心にする岡場所を特って来ることで、物語がにわかに生彩を帯びて来るのはたしかで、岡場所があるとないとでは大違いということになろう。
 深川には、著名な場所だけでも七ヵ所の岡場所かおり、それらはすべて富岡八幡宮前を中心に点在していた。
 ところで岡場所ということですぐに気づくことは、深川に限らず、本所の弁天、回内院前、根津の山内、あるいは何々門前といったぐあいに、遊所が神社、仏閣のそばに、附属するもののように発違していることである。
 考えられる理由のひとつは、参詣人をあてこんで門前にひらかれた茶店が、自然発生的な経過をたどって、そこで働らく女たちを遊女とする、のちの水茶屋、料理茶屋に変化して行ったということであろう。
 江東区史によると、八幡営別当の永代寺から、門前に町屋をつくって、そこから神社、寺院の経営費として、上地使用料を取り立てることの許可願いが幕府に提出されているようで、門前町ににぎわいをもたらす岡場所の発展には、神社、寺院の意向にも沿うものがあったようだ。
 元来日本の神々は、性をタブー視するキリスト教とは違い、陰陽の合一に五穀豊穣のイメージをかさねて見て来たわけで、岡揚所のにぎわいは神仏の心に障るところはひとつもないと言ってもいいだろう。
 うろおぼえの知識だが、そういう土地の岡場所化には、参詣への精進落としの連前がふくまれていた気配もあるようだ。私の郷里である山形県の荘内平野の村には、月山、鳥海山を霊山として、月山を上の御山、鳥海山を下の御山と呼び、毎年交代に村の代表が登山参拝して来る風習があった。下の御出である鳥海山の場合は、単独の登山になるが、上の御山の月山に登る場合は、二日がかりで湯殿山、月山、羽黒山を駆けて帰って来る。
 そして村では、この村代表の参詣人である数人の男たちが無事に帰って来ると、神社の長床に寄りあつまって、「はばき脱ぎ」の酒宴をひらくものであった。はばきは脛巾で、のちの脚絆のことであり、そこで霊山参りの旅支度を解くという意味だったのだろう。こういう風習には、単に登山参拝の苦労をいたわるというだけでなく、精進潔斎して霊地を旅し、神と接触して来た者を人聞世界にもどす精進落としの意味もあったように思われる。
 この「はばき脱ぎ」は、神社の長床で酒を飲むといったつつましいものばかりとは限らず、しばしば料理屋に上がって芸者を呼ぶというような、かなり大がかりな酒宴になることもあったように記憶する。


ああ