黄金律と太古の神々

昔、孔子は仁愛を説明して「自分がして欲しくないことを他人にしないことだ」と教えた。
なるほど、その通りである。
自分なら、これは嫌だな、と思うことは、他人にしないようにする。それは当たり前のことだろう。

それから、イエスキリストは、愛を説明して「自分が欲っすることを他人にもしなさい」と教えた。
消極的、積極的、という違いがあっても、これは同じことを述べている。儒教キリスト教という時期も地域も違う東西2つの高等宗教の示す価値観がそっくりなのは、それが真理だからである。これを「黄金律」という。また仏教の菩薩行もこれに含まれている。

人類の普遍的価値観の一つである。こうした価値観は非常に大切なものだ。なぜなら、それは、我々が社会生活をしながらいつしか忘れがちな人間性を取り戻させてくれるからである。企業戦士として業績一辺倒になり、他者、他社を蹴落としていく阿修羅のような生活は、人間性を失ったものでしかない。心は冷たくなり、しかし自分ではなかなかそうしたことには気づかないのだ。たとえ、資産を造り、広大なマンションを得て、ゴルフを趣味とすることができたとしても、それが人としての心を失ったうえで得たものであるとすれば、そこに何の意味があるだろうか?心の芯まで冷え込まない内に自分を取り戻すべきだ。

「黄金律」は人にやさしさをもたらそうとする。
そこからは、困った人や苦しんでいる人を助けようとする行動が生まれるのだ。そういうわけで、キリスト教が市民化されていた20世紀の西欧では、広範なボランティア活動が始まった。
今日の日本でも、ホームレスの方々に炊き出しをしているボランティア、教会活動が存在しているように。

最近では、フェミニストに乗っ取られた感がある巨大ボランティア団体であるアムネスティも、それを生み出したのはキリスト教精神だったのである。

一方、日本ではこの手の「困った人を助けよう」とするボランティアの草分けは、8世紀初頭の行基菩薩による一連の社会事業であった。行基は、村々に橋をかけ、ため池を造り、飢え死ぬ事の多かった当時の人々を助けた。やがて彼の周りには人が集まり、教団らしきものが形成されていく。菩薩行をかかげる仏教によるボランティア団体なのだ。行基以前にも薬師寺における無料治療活動が存在していた。人類愛に基づくこうした活動は、我が国にも古くから存在していたわけだ。もしその精神がもっと広まっていたなら、その後の日本史はもう少し幸福なものであったかもしれない。残念なことだ。

しかしこうした精神が決して、神道からは生まれないことにも注目しなければならない。

我々は簡単に「宗教」という言葉を使うが、宗教には2種類あるのだ。一つは始原的アニミズムの発展形である神道バラモン教などの多神教である。
ゲルマン人が信奉した北欧の神々、ギリシャ神話の神々、その源のような古代シュメール人のメソポタミヤ文明。エジプトの数千におよぶという神々。古代はどこにも大量の神々が存在していた。しかし、こうした神々は、決して人の心を取り戻す教えを説かない。

その代わりに、こうした神々の神殿では2つの悪習が広まっていく。一つは、人身供犠である。それは神々に人の生命を捧げる風習である。犠牲者の新鮮な心臓を取り出して太陽神にささげるアステカ文明は、16世紀まで存在していた。

もうひとつは、人身売買と売春を広めたことである。
古代、神々の神殿は、いづこも性のメッカであった。聖娼が生まれ、神殿淫売が広範になされた。それは我が国の神社も同じである。


人間性を取り戻す教えに満ちた宗教と人間性を破壊してしまう宗教があることに気づくはずである。そして神道は、人間性を取り戻す宗教ではないのだ。だからこそ、神道思想が高揚し、国体明徴なんてものが造られた1930年代には、人間性を極端に否定する行為がなされたのである。