古代日本の宗教戦争の中での太子のカリスマ

仏教伝来当時、仏教徒達は攻撃されっぱなしだった。
その戦いは3次に渡る
3という数字は聖書や易経でも聖なる数字とされている。3度、3回というのは意味がある。
 
 
570年、その稲目が死去すると物部氏らは、向原の仏殿を焼き、百済王献上の仏像を難波の堀江に流す。
その4年後太子は生まれた。
 
583年、再び疫病が全国に流行する。
蘇我馬子はそれを「仏像を破断した祟りである」と言う。
翌584年、馬子は百済から鹿深臣が持ち帰った弥勒の像をもらいうける。勇気づけられた馬子は豊浦の石川の家に仏壇を安置し、善信尼をはじめとする3人の尼僧に供養祈祷せしめ、仏舎利を建てる。
 
 585年、物部守屋は中臣勝海と共に敏達天皇に「廃仏」の決断をせまる。せまられた天皇は、彼らに「廃仏」の命令を下す。物部守屋と中臣勝海は仏塔を切り倒し、仏殿を焼き、仏像を捨て、さらに尼僧3人を監禁する。しかし疫病流行は終わらなかった
 
 
相当やられてるんだけど、踏ん張ってるね。 このあたり。
そして太子が成長して、14歳の時。
決戦だ。
 
586年、敏達天皇と馬子が相次いで発病した。天皇は崩じる。馬子は快癒する。
 不安な世情は一転して馬子に味方しはじめる。「国神の権威は、他国神(仏)に及ばず」と。

 587年、聖徳太子の父親である用明天皇が即位した。この善良だが弱気で病弱な天皇は、仏教に帰依したがっていたが、それを決断せず、群臣の議定にまかせてしまった。 当然、議定は割れる。

 物部氏蘇我氏は互いに軍勢を集めて、今や一触即発のにらみ合いを続けていた。思想と宗教の対立は激化し、もはや話し合いや妥協の許されない武力闘争へと発展していた。

 用明天皇の死後戦乱が始まり、戦力に劣る蘇我氏は3度敗退し窮地に立つ。太子らは信貴山に逃げ込む。
敗色は濃厚だった。
そこで,太子は自ら白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉小高木)で四天王像(仏教での守護神とされる持国天増長天広目天多聞天)を彫り,ひょうたんのような形に結っていた頭髪に入れた。そして,太子はこの戦に勝ったなら四天王のために寺塔を建立すると天に宣言する。
馬子もそれに習い同じ事を誓う。
 奇跡が起こる。
太子の信仰は蘇我氏と諸豪族の連合軍の士気を高め、再び体勢を整えた太子は,河内の渋河で守屋の軍勢に猛攻撃を行った。この時守屋は木の上から矢を放っていたが,蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中,守屋は木から落ちた。すかさず秦河勝(はたのかわかつが守屋の首を切り落とした。こうして大逆転して物部氏に攻撃を加え、ついに戦勝する。
もしこの時、蘇我氏が敗北していたなら、後の日本の仏教史はなかったであろう。
そしてもし蘇我氏がその後失敗しなければ蘇我氏の名前は永遠の金字塔として語り継がれていたであろう。

588年明日香法興寺の着工。諸豪族も仏教受容を表明し氏寺を建て始めた。今や仏教輸入の最初の戦いに勝利したのだ。

古代日本の宗教戦争である。