古代日本の宗教戦争の中での太子のカリスマ
仏教伝来当時、仏教徒達は攻撃されっぱなしだった。
その戦いは3次に渡る
3という数字は聖書や易経でも聖なる数字とされている。3度、3回というのは意味がある。
583年、再び疫病が全国に流行する。
蘇我馬子はそれを「仏像を破断した祟りである」と言う。
585年、物部守屋は中臣勝海と共に敏達天皇に「廃仏」の決断をせまる。せまられた天皇は、彼らに「廃仏」の命令を下す。物部守屋と中臣勝海は仏塔を切り倒し、仏殿を焼き、仏像を捨て、さらに尼僧3人を監禁する。しかし疫病流行は終わらなかった。
相当やられてるんだけど、踏ん張ってるね。 このあたり。
そして太子が成長して、14歳の時。
決戦だ。
587年、聖徳太子の父親である用明天皇が即位した。この善良だが弱気で病弱な天皇は、仏教に帰依したがっていたが、それを決断せず、群臣の議定にまかせてしまった。 当然、議定は割れる。
物部氏と蘇我氏は互いに軍勢を集めて、今や一触即発のにらみ合いを続けていた。思想と宗教の対立は激化し、もはや話し合いや妥協の許されない武力闘争へと発展していた。
敗色は濃厚だった。
そこで,太子は自ら白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉小高木)で四天王像(仏教での守護神とされる持国天,増長天,広目天,多聞天)を彫り,ひょうたんのような形に結っていた頭髪に入れた。そして,太子はこの戦に勝ったなら四天王のために寺塔を建立すると天に宣言する。
馬子もそれに習い同じ事を誓う。
奇跡が起こる。
奇跡が起こる。
太子の信仰は蘇我氏と諸豪族の連合軍の士気を高め、再び体勢を整えた太子は,河内の渋河で守屋の軍勢に猛攻撃を行った。この時守屋は木の上から矢を放っていたが,蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中,守屋は木から落ちた。すかさず秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。こうして大逆転して物部氏に攻撃を加え、ついに戦勝する。
もしこの時、蘇我氏が敗北していたなら、後の日本の仏教史はなかったであろう。
古代日本の宗教戦争である。