仏教

        仏教の真髄、眼目
 
  私達は目に見える小さなものには、共通の見解を持ちやすいのです。今私の目の前に銀色のコップがありますが、私が「ここに銀色のコップがあります」と言ってそれを見せれば、たいていの人は「そうですね」と言うと思います。中には「いいやそれは銀色じゃなくてオパール色だ。コップじゃなくて花瓶だ」と言い張る独自の感性の方もいらっしゃるかも知れませんが、それはそれで貴重であり、大差ないので善しとします。
 しかしこれが目に見えないものであるとか、目に見えても大きなものになると、共通の見解に至るのはとても難しいのです。
 仏教とは何か?
 仏教の本質、真髄、眼目とは何か?
と言う議題に関しても共通の見解に至るのは難しいでしょう。しかしだからと言って何も表現しないとしたら永遠に通じ合う事はないのですから、それなりに努力はして置くべきです。
 
  仏教とは仏の教えの事です。仏教の真髄とは、その教えの中で大切なのは何か?と言うことです。
 私はそれを「善をなせ、悪をなすな」だと言います。

〔善を為せ、悪を為すな〕
と言う言葉は5歳の幼児でも知っている言葉です。しかし50歳を越えても実践は難しい。
私達が誰でも、何となくこの言葉を知っているのは、遠い昔に――まだ日本民族が幼い頃に――仏教が輸入され、民族の無意識にこの言葉が刻みこまれたからです。
 最初に日本でこの言葉を使ったのは聖徳太子でした。太子は臨終の床で息子の山背にこの言葉「諸悪幕作、諸善奉行」(もろもろの悪をしてはならない、全ての善を行い、心を清めよ、これが仏の教えである)を伝えました。
 七仏通戒掲(しちぶつつうかいげ)という。
 これは、過去七仏が共通して保ったといわれる掲文で、仏教思想を一掲に要約したものである。
 
 最初に太子のセリフを知った時、私は震えました。太子の宗教的天才がよくわかったからです。仏教が伝来してわずか70年、そこまで到達しえたとは――感動と驚きが私を震えさせた。後の世の日蓮上人、そして昭和の菩薩・キリスト者賀川豊彦に出会った時と同じ感動と驚きが私をつつんでいた。太子を日本仏教の父と呼ぶのもうなずける。
            
            善と悪の業
 釈迦の悟りの中には「善業善果、悪業悪果、非善非悪業非善非悪果」と言うのがあります。「善を為せば善い結果が生じ、悪を為せば悪い結果が生じ、善くも悪くもない事を為せば善くも悪くもない結果が生じる」と言う意味です。原始仏典の中では例えば伝道中、村人に石を投げられたのは、釈迦の前世で悪を為したのが今世に悪の結果として現れたのだと説明しています。

             因縁生起説
 例えば、あなたが何か善い事をした。しかしその結果はすぐに現れません。
 釈迦によれば、それは因が縁を得て初めて現れるのだと言います。これを因縁生起説と言います。
 

              善悪の理法
 つまりこの宇宙には「善悪の理法」があって、善人にも悪人にもそれに見合う報いがあるのだという。
 それを釈迦は悟ったのです。

 これは三宝印(諸行無常諸法無我涅槃寂静)の悟りよりもはるかに重要です。なぜなら仏教以外の高等宗教も同じ事を見出しているからです。中国の儒教――啓天思想家は「天網恢恢租にして漏らさず」と述べて「天はどんな小さな善も悪も見逃さず、報いを与える」と述べている。それはユダヤ教キリスト教イスラム教においても同じです。「神は人の善悪の行動を公正に裁かれる方である」と旧約・新約聖書の全体で述べている。
 つまり釈迦が悟った「善悪の理法」は全ての宗教によって「正しい」と肯定され、価値あるものと見なされるのです。

 「善をなせ、悪をなすな」
という七仏通戒掲こそ仏教の真髄・眼目であると私は証言します。