日ユ同祖論 正論と謬説

 
              日ユ同祖論 正論と謬説
 
日ユ同祖論者のバカげた説という題目で記事を書くつもりだが、すでに述べてきたように、私自身が日ユ同祖論者である。
けれども、根拠としているものがまるで違う。
 
例えば、”聖書と日本フォーラム” http://biblejapan.info/ の人たちが唱えている古代イスラエル十戒の石板、マナの壺、アロンの杖は日本の三種の神器である」と言う説がある。
のけぞってしまう。
日本の三種の神器と言えば、天照大神から授けられたというだが、どこをどう見ても共通点など存在していない。
 
アロンの杖 が 剣で
マナの壺 が マガタマで
石版 が 鏡だ
なんて言うのだが、一体どこに共通点が???
コジツケとしか言いようが無い。
 
だいたいユダヤ人はこれを ”三種の神器” だなんて言っていないし
さらに言えばスキタイ騎馬民族三種の神器の方が 日本の 三種の神器によく似ているのである。
スキタイ人の 三種の神器は 斧・盃・鋤 である。
これも重ならないが、まだ近いだろう。
 
このスキタイ騎馬民族の住んでいた本拠地は、カフカス山脈の東であり、記録によれば新バビロニアが滅んだ理由の一つは、このスキタイ騎馬民族の略奪、侵入であり、当然行動面積の広かったスキタイはアッシリアにも侵入したであろう。(ノアの子ヤペテ、その子ゴメルの子孫アシュカナズがスキタイ人であるという━歴代誌上1/6、エレミア51/27)
 この時代10部族はスキタイと接触している可能性もある。
 
そもそもイスラエル10部族(10支族とも言う)は、創造主たる神を捨て、バアルを始めとする神々を崇拝したのであった。
その後、北イスラエル王国は滅び、捕囚にされた人々は、少なくとも300年はアッシリアに留められた。
アッシリアはアッシュール神の国であり、ゆえに彼らはここでアッシリアで信じられていた神々を吸収したであろう。
 従って日本の神々は古代オリエント付近の神々と共通点を持っている。
 
 
この事はすでにバビロニア学会の原田敬語が大正時代に指摘している。原田は『日本人シュメ-ル起源説』(大正7年)を発表して創世神話であるイシュタル女神の冥界下りの神話が日本創世神話イザナミの冥界下りによく似ている」など神話を比較しているのである。
私の記事でもイランのオセット神話との関連をあげているが、我々の先祖は現在の中東にいた事があるに違いない。
 
つまり、日本の神道ユダヤ教の風習の痕跡が残っていたとしても、それはかなり失われていて、それほど多くは無いだろう。
むしろ、おそらくオリエント各地の風習が見られるはずである。
例えば”狛犬”は、古代オリエント全体に見られた王家の守護であり、特にソロモンの守護という訳ではない。
注連縄もユダヤ教というよりも、マリ遺跡などに見られる蛇の紋章から生まれたものだろう。(吉野裕子説)
 
 
例えば、お神輿だ。
これが、「モーセの契約の箱だ」なんて一体誰が言い出したのか?
しばしば稚児を神として練り歩く神輿の風習は「契約の箱」とは共通点が「箱を担ぐ」というだけでは無いだろうか?
少なくともモーセ出エジプトをモチーフとしているとは思えない。
 
さらに言えば、「剣山にソロモンの秘法が隠されているとか「東北にキリストの墓がある」とか秦氏景教徒であり、八幡神(やわたかみ)ユダヤキリスト教の神ヤ-ウェである」など、いずれも根拠がなさすぎる。
 
             秦氏景教徒である」は謬説である
秦氏景教徒である」は佐伯好郎(1871~1965)が唱えたが、すでに学会において、その時代考証の不適切さが指摘されている。景教は431年エフェソス公会議で「異端」とされ、東方に追いやられ、635年唐に入った。しかし秦氏は4~5世紀には日本に入っていた事が分かっており、時代が合わない。
 さらに秦氏が全国にヤーウェの神殿(八幡社)を造るほど熱心な景教の信奉者であるなら、周りの人々に伝道したはずだし、一族1万人以上いた秦氏は少なくとも1000冊くらいの聖書を持っていたはずである。もし聖書写本が数冊しかなくとも、ヤ-ウェの神殿を全国に造るほどの信心なら、子弟にその神について教えたであろうし、それが文書化しているはずである。さらに全国の八幡神社に、その神の由来を示す碑文を立てたであろう。しかし今日まで古代日本に聖書があった証拠はないし、碑文も無いし、後世の秦氏の子孫に聖書やその信仰が伝わった様子もないのである。
 
 つまり、最初から根拠が無いのである。
 
おそらく、それなりに科学的基準を求めているアミシャーブもこれらを根拠にする事は無いだろう。
 という事を締めくくりとしたい。