フルベッキのまいた種

賀川豊彦の聖なる人生」について書きたいのだが、その前に明治以来のキリスト教全体について書いておく必要があるだろう。
 
  日本に来た宣教師達の多くは、自国での名声や安逸な生活を捨てて、ただ己が内なる神の声に聞き従った良心的な人達であった。彼らはこの東洋の端にある国が、キリスト教を禁止し、宣教師を拒み続けている、危険な国だと知っていながら潜入したのであった。その姿はかつて仏教の経典を取りに行くために、幾千万里の危険な旅をいとわなかった三蔵法師や五度の失敗により失明しながらも、日本仏教に戒律を伝えてくれた鑑真の姿に重なるものがある。彼らは皆、己が内にある一個の声に聞き従い、その道を命がけで歩いたのである。
 神学上の理由からDCグリーンが私は好きでは無い。彼のユリテリアン神学はデカルト啓蒙思想の影響を受けすぎている、と思う。だが自国での安逸を捨てて来日したという点では評価している。何か大きなものに突き動かされなければ人は命を掛けたりはしないものだ。
 九州に潜入したフルベッキもまた、発覚すれば死罪と言うキリシタン禁教下に来日し佐賀藩の英語伝習所
「致遠館」に教えた。大隈重信副島種臣はフルベッキの教え子である。
 
                       大隈重信副島種臣
 宣教師フルベッキから『聖書』の真理を学んだ大隈重信副島種臣佐賀藩を脱藩して、龍馬に先導され土佐藩が主体的にしていた大政奉還運動に加わった。
 後に大隈(1838~1922)は維新政府の外交官となり、立憲改進党を結成、早稲田大学を創設。黒田内閣外相、1898年憲政党を結成し初の政党内閣を誕生させ、総理大臣となった。

 副島(1828~1905)も維新政府の参与となり、外務大臣の時には横浜港に入港したペルー船内で奴隷として酷使されていた229人の清国人を救うため日本で特別裁判所を設けて裁判を断行。
 清国人奴隷全員を開放し、帰国させた。
 文明開化の鐘がなる、古き良き時代の輝かしい成果と言える。
 
 フルベッキの手紙によれば、大隈と副島は新約聖書の学びに良い成績を残したと言う。「良い種をまけば良い実がなる」 という聖書の言葉もある。大隈と副島という実を見て、フルベッキが日本にまいた種を我々は知るのである。

 
 
               真ん中がフルベッキとその家族
 
 
これはその佐賀藩の英語伝習所「致遠館」の写真だが、「密かにフルベッキに学んでいた坂本龍馬西郷隆盛が写っている」という噂がある。もちろんこれは都市伝説みたいなもので根も葉もない噂にすぎないのだが・・・・
 
 
 
[参考サイト]