トマス・アキナス━文明は出会い、衝突し、そして融和する

      トマス・アキナス━文明は出会い、衝突し、そして融和する
 
ついでだから彼について少し知識を広げておこう。
 
トマスは1225年、十字軍戦争の真っ最中に生まれた。
以下、ウイッキーからの抜粋である。
赤字は私。
 
トマスは南イタリア貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国ロッカセッカ城であると考えられている。
              <略>
こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を連れてきてトマスを誘惑までさせたが、彼の決心はゆるがなかったという[2]
ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されている。
 
当時、ドミニコ会は生まれたばかりで、いわいる今日の新興宗教のようなものだった。だから家族も反対し、トマスを拉致し、長らく監禁したのである。
家族は美しい女性を送り込み、性的関係にして出家を諦めさせようとしたのである。
しかしトマスはこの誘惑を退けるだけでなく、家族達を次第に感化してついに協力者にしてしまった。
彼のすばらしい人格を教えるエピソードは様々だが、次の文章にあるように非常に温厚だが、高い知見とカッコたる信念をもっていた。
こうして彼は中世最大の神学者と呼ばれているのである。
 
1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる[5]。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい[6]。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めるとその論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。
          (略)
トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、「天使的博士」(Doctor Angelicus)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323年7月18日アヴィニョン教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている[9]
1545年トリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった
 
                 神学大全
 さて、ウィッキーによる『神学大全』の解説を読んでみたが、いまいちなので私が簡単に解説しよう。
 
十字軍は東西の文化・文明の交流を促す事になった。
当時、オリエントのイスラム教徒はアリストテレス哲学を吸収し発展させていた。
これが十字軍によってヨーロッパに紹介されると神学と哲学における大きな混乱が生じた。
なぜならアリストテレス哲学は、極めて多くの真理を含む、一個の巨大な哲学体系だったからである。
それは、神を頂点とし、薬草学、天文学、動物学などを含んでいた。
 
これに対しては次の2つの立場が存在していた。
アリストテレス哲学を無視する(保守派)
アリストテレスを受け入れ従来のスコラ哲学を捨てる(革新派)
 
我らのトマスはどちらの立場も取らなかった。
彼はアリストテレス哲学を吸収し、従来のスコラ哲学をより高い次元で説明しうる一個の体系へと昇華させたのである。
 
ところで20世紀、トマスの時代と同じような事が、より高次に起こっている。
それはキリスト教と東洋思想との本格的な出会いである。
 
A・トインビーが述べているようにこの出会いは、人類史上でも有数な文明レベルの衝突なのである。
 ゆえに、トマスの時代と同様に、東洋思想を吸収し、キリスト教をより高い次元に昇華させる体系的神学、哲学の登場が求められているのである。