菩薩の行い

    聖徳太子から行基菩薩へ・・・その菩薩の心
 
大乗仏教においては、利他行を強調する。
これを殊更に強調したのが聖徳太子である。
 
太子の造った大阪の四天王寺4院が造られ、薬草を栽培し与えたり、貧困者や病人を寄宿させ養い、あるいは修行と修養をさせたのも、この太子の思想から来ている。
 
太子は
『勝蔓経』の「財を捨すとは・・・・一切衆生の殊勝な供養を得るとなり」とあるのに対して
「語は少しく倒せリ。まさに殊勝の一切衆生を供養する事を得と言うべし」と説明する。
つまりは、経典の文句を恣意的に言い換えて、利他・奉仕の精神を強調しているのである。
 
このように太子の強調した利他・奉仕の精神を引き継いだのが、息子の山背大兄王であり、さらに太子から100年後の聖人行基である。
行基は人々のために、山を切り開き、橋を架け、灌漑事業を行った。
当時、太子の精神を忘れ、僧侶の自由を剥奪し(僧尼令)、統制していた朝廷は、この行基の聖なる活動を「邪教」とし、その行動を阻止する法令を出した。
こうして行基とその弟子達は迫害され、排斥されたが、長年に渉る朝廷による迫害にも耐え、ついに仏教に深く帰依した聖武天皇の時代を迎え、認めさせ、大僧正の位に就いたのである。
 
この話は日本の宗教史の中でも私の好きな話である。
私はクリスチャンなのだが、私の中のキリスト教的感性は、仏教のこうした歴史に感銘と感動を覚える。
 
ところでこの行基菩薩と同じ時代に生まれ、官寺仏教内から、行基に対する政策を批判したのが道慈である。
彼は日本書紀の編纂にたずさわり、良い仕事をたくさんしている秀才だが、行基のように菩薩と言うほどの人物ではない。
三経義疏はこの道慈が書いた・・・とか
聖徳太子は道慈の捏造である・・・とか言う説が、江戸時代からあり、最近でも唱えている者がいるが、道慈には、その後の仏教の流れを決定する『三経義疏』や書記の記述全体を捏造するような事は最初から不可能である。
 
他人の幸福を願い、奉仕する事が菩薩行である
聖徳太子という天才の理解力によって咀嚼され、吸収された仏教が、その後の日本の仏教の実践的方向性を決定したのであった
それはキリスト教の「愛」の精神と少しも変わらないものなのである。
しかし、その太子仏教も1052年に始まった末法の世の中で、その実践力を失い、僧侶の堕落が相次ぐ中、新たなる天才が生まれた。
 
 それが日蓮聖人であった。
 
ゆえにそれまで聖徳太子によって咀嚼された仏教が中心であったが、
日蓮以降においては、日蓮によって咀嚼された法華経」仏教が日本を導いたのであった。