行基菩薩の闘争

【続日本記】養老元年(717)四月二十三日条は、国家による仏教統制策として、当時の状況が僧尼令に反している事を三か条に分けて厳しく指摘し、その取り締まりを命じる詔を載せる。そこで糾弾されている内容は、令の規定によらない出家、すなわち私度僧の問題であり、こうした私度僧たちが布教活動を展開したり、呪術的行為を行う事である。糾弾の言葉は辛らつを極め、私度僧については「容貌はさもさも僧侶のようだが、その心たるやまるで犯罪者だ」と決め付け、呪術行為は「嘘をついてあやしい事を並べ立てる」「いい加減な占いをしては人々を脅かす」などとこき下ろす。そして、この中心にいるのが行基だ、と言う。詔は、行基とその集団について、次のようにまくしたてる。
 
小僧行基めとその弟子達は、町中に群がっては、もっともらしく因果応報を説いている。徒党を組んで俳諧し、指に火をつけてみたりと怪しげな行為で人々をたぶらかし、家々をまわっては無理矢理寄付をふんだくる。「聖道」だ。聖なる行いだ、と嘘偽りを言って人々をだましている。これにだまされた連中が、また仕事を捨てて行基集団に加わっている。仏教の教えにも、律令の規定にも反した、まったくけしからん行為である。
 
わざわざ行基を名指しで糾弾しているぐらいだから、その影響力が伺い知れよう。「小僧行基」と憎憎しげに呼び捨てる言葉に、法律でも、脅しでも、天皇の権威でさえも統制できない宗教的高揚への苛立ちが読み取れるのではないだろうか。
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行基畿内の要所に,橋を架け、布施屋を立てて交通インフラを整備した。めざましい実行力と組織力である。その行為の背後には、苦しむ衆生を救うという確固たる信念が貫いている。流民化した人々から見れば、まさに「菩薩」に見えたのであろう。
 
仏教を国家鎮護と王権の荘厳のみに利用しようとする立場からは、これほど目障りで危険な存在はない。だが、知識によって人々を御仏の元に結集し、事業を成し遂げようとした時、これほど心強い集団もなかったのではなきあろうか。
かくして、流民達は大仏造営という興奮のるつぼへと身を投じていくこととなる。
 
                            (『平城京に暮らす』馬場基著)