「神天上の法理」の歴史

法華系では「神天上の法門」(しんてんじょう)と呼んで、神々不拝を説いた。
末法の時代には、護法の善神はことごとく天に上っており、空家となった神社には魔が棲みついているとする。
そのため神社を拝し神社に寄進することは、法華経をそしる謗法の大罪をおかすことになるとされていた。
 
しかし鎌倉以来、皇室は真言宗の檀家となり、真宗でも日蓮宗でも、きびしい神々不拝は時とともに少数派の信念へと狭まっていった。
                     (『天皇制国家と宗教』村上重良著P36 より)
 
鎌倉時代末期には、伊勢神官である度会による伊勢神道が生まれ、反本地垂迹説が唱えられるようになり、室町末期には、吉田神道が「法華30番神信仰」を唱えた。こうして日蓮宗はその霊性を妨げられ、勢いを失い、さらに江戸時代の本山制度の法度の中で、息の根を止められて行ったのである。
こうして霊的生命を失っていった日蓮宗各派僧侶は、明治維新直後に太政官が「妻帯せよ」と布告したのを受けて唯々諾々と取り入れたので、今日多くの日蓮宗僧侶は妻帯しているのである。
祖師日蓮以来の反骨非妥協の血脈はどこへいったのか?
世俗権力の教義への介入まで許してしまっている。
日蓮の思想には明治国家にとって、いわいる「不敬」にあたる内容が多くあった。例えば日蓮は「法華経を広むれば釈迦仏の使いぞかし、僅かの天照大神、正八幡なんぞと申す神は、この国には重けれど、小神ぞかし」(『種種御振舞御書』)と述べて、明治国家の絶対神たる天照大神を「小神」と呼んでいた。そのため明治元年太政官日蓮宗諸本寺に対して日蓮の本尊曼荼羅における天照大神の位置の低さを取り消すように通告した。すでに江戸時代に、祖師日蓮以来の独立独歩の姿勢を捨てていた日蓮宗諸寺はこの布告を唯々諾々と従ってしまったのである。こうして日蓮の教説を強引に歪めて、国体思想的に解釈する風潮が生じ、生まれたのが田中智学の〔国柱会〕であった。
 
こうした大勢の中で、唯一日蓮の法統を引き継いだのが、当時3000人に満たない弱小団体、創価学会であった。
 
            創価学会の戦い

1941年3月、「治安維持法」が改悪され「国家神道」による思想統制が強化。創価学会の座談会さえも特高警察の監視の下で行われるようになった。
この圧力に宗門は屈し、全国の末寺住職檀家に伊勢神宮遥拝を命じた。

しかし、創価学会創始者牧口常三郎はこれに反発し、43年5月、遥拝のために配られた伊勢神宮大麻(お札)を拝むどころか、焼き捨ててしまった。牧口は「神道邪教である」と叫ぶ。(神札事件)

 全国民が、軍国主義とアマテラスにひれ伏していた時代の話であった。信仰に支えられていたとは言え恐るべき精神力である。この時代、投獄されたクリスチャンは多くいたが、これほど明確に真実を述べる事ができた人間はいなかった。
かねてから、牧口を狙っていた特高思想警察は、牧口以下幹部数名を「不敬罪」で逮捕した。牧口は拷問を受け、敗戦を前に責め殺された。幹部達も次々と転んでいく中、しかし2代目会長となる戸田城聖ともう一人が信心を守り通した。
この3人による信仰は、戦後、創価学会が爆発的に広まる基になったのである。