貧民窟に入る

賀川豊彦は「悪」を「宇宙悪の問題」と呼んだ。(『貧民心理の研究』1915)
かれは「悪を跳ね返して進む一つの力がある」と言う。(『イセスの宗教とその真理』1921)
そしてこれを生涯の課題としていた。(『宇宙の目的』1958)
 
キリストの十字架は、人に全人格的応答を求める。ゆえにこれを「生命の宗教」と呼ぶ。
 
貧民窟のただ中で社会悪と戦う。貧民窟は社会悪の巣窟であった。
 
「最初の印象ー私の第一の驚きはもらい子が多い事でした。最初の年に葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のもの・・・・・・それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人がいて・・・・・それで初めは衣類10枚に金30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚くらいになり、第三者の手に移る時には金10円と衣類3枚・・・之というのも現金が欲しいからです。それが欲しいばかりに,だんだん痛めつけられた貰い子を、お粥で殺して、栄養不良として届けだすものです。
病人の世話ー最初の年は病人の世話などする気はありませんでしたがー(中略)一ヶ月50円で10人の食えない人を世話することに定めていたのでした。しかし来る人来る人も重病患者であるには全く驚きました。
賭博ー博徒と喧嘩はつきもので、私は『ドス』で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質にいれます。しかし博徒と淫売が全く同じ系統にある事を知って驚きました。淫売の亭主がその女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。」(『人間苦と人間建築』ー貧民窟10年の経験、P358)
 
しかし、同時にそこは尊敬すべきものが見出せる場所でもあった。
 
「・・・・このドン底でも一種の固い道徳と、愛と、相互扶助のある事です。貧民窟の博徒が入監獄でもすれば、徴兵にでも行くように騒いで、皆で同情して差し入れをする。病気になれば、近所で救済する。・・・・」(『地殻を破って』)
 
賀川が宇宙悪の跳梁を防ぐものであると考えたのは、この「相互扶助」であった。
 
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賀川自身が貧乏であった。
1909年、クリスマスイブの日。
その華やいだ雰囲気に背を向けて、賀川は新川の貧民窟にやって来た。荷車には、布団、衣類5,6枚と書き物の道具。
賀川が借りたのは、昨年死んだ男がでると言う幽霊屋敷だった。入り手がなかったので日家賃7銭のところを2銭で借りられた。
5畳敷きだが、古畳3枚を置いた。
2年前から、肺結核は悪化し、前年のほとんどは三河で療養した。
「どうせ、死ぬんだ」と思った。
「どうせ、一年か2年、長くて3年で肺で死ぬのだから、死ぬまでありったけの勇気をもって、もっとも善い生活を送るのだと決心した」(『死線を越えて』P184)
 
賀川はそこに自分の使命があると感じていた。
子供の頃から「妾の子」と言われ、悲哀を味わい、15才の時、兄の放蕩に賀川家は破産した。それから彼は『聖書』も買えないほど貧乏だった。
1909年の日記にこう書く。
「私は全く絶望だ。絶望だ。絶望だ。人生の価値をまったく疑っていまった。一晩泣いた。
そんな重い荷物を抱えた彼を抱きしめてくれたのは宣教師マヤス博士夫妻であった。