ドクトル・ヘボンの夢

             ドクトル・ヘボンの夢

 日本ではヘボン式ローマ字の考案者、『聖書』の翻訳家として知られるヘボン博士は腕のよい医師としてもしられるが、夫婦ともども熱烈なる宣教師であった。
 
 19才の冬、ペンシルバニア州ミルトンの長老会に参加した時、彼は突然自分が東洋に宣教医として行く使命があるのだと感じ始めた。人生の激しい試練の中で4人の我が子を失いながらも、その使命感は失われる事がなかった。
 ニューヨークの大病院の地位と名声を捨て、44才の彼は1859年の禁教下の日本にやって来た。
 
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 日本の役人は十手をかざしてヘボンの散歩さえ邪魔しようとした。当然伝道などやりようもない。
 しかし彼は医師であった。無料で患者を診療する彼を信頼する者は多くなった。妻のクララも英語塾を開いて次第に信頼関係を作り、『聖書』を教えた。(この塾から明治学院フェリス女学院が生まれた)この時代に来日した宣教師はみなこうして目的を隠して奉仕活動をしながら宣教の機会を伺ったのである。
 D・C・グリーン、S・R・ブラウン、メアリー・ギダー、フルベッキなどである。
 こうした努力が実り1872年、まだ禁教下の日本で最初の受洗者12名が生まれたのである。
 横浜公会の発足だった。
 
 私はこの話が大好きである。そこには人として到達しえる高貴な熱情献身の心情や愛━があふれている。
 
 ところで「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンはこのヘボンの遠い親戚らしい。