賀川豊彦の聖なる人生への誘い
最後に残ったこの一枚
以前、賀川豊彦先生を個人的に知っている方が、こんな話をなさっていました。
賀川先生は若い頃、肺病持ちの体で、本当に弱って青ざめた顔をしていました。しかし、
「俺はもうすぐ死ぬんだから」
と言って、貧民窟に入って、捨て子を次々に集めては育てていました。また行路病人の女を看取ってあげたりもしていました。
そんな中に、あるクリスマスの頃、明治学院時代の同級生が賀川豊彦のことを思い起こしました。
そうだ、あいつは自分が病気で、顔も真っ青だというのに、この寒い時にも寒さに打ち震えながら頑張っている。あいつに新しいメリヤスのシャツでもプレゼントしよう、と思って賀川豊彦にプレゼントしました。
「賀川君、これは君へのクリスマス・プレゼントだ。貧民窟の貧民にじゃなくて、君にやるんだから、これを着てどうか体を大切にしてくれ」
と言って渡したそうです。
ところが数日後、賀川豊彦は何だか言いにくそうに、彼にこぼしたそうです。
「どうも済まん。じつはあのシャツは、私が世話している病人に着せてやった。それがこの前死んだ。夜中に死んでな、お湯を沸かしてその体を拭きあげてやった。棺桶がないので、酒樽につめて葬った。かわいそうなことをしたが、せめて君のおかげで、きれいなシャツを着せてやれた……」
そう言われて、その友人はもう二の句が継げなかったそうです。このときの経験は、彼にとっても忘れられないものとなりました。
賀川先生も、この時のことを回想してか、後にこんな歌を詠みました。
以前、賀川豊彦先生を個人的に知っている方が、こんな話をなさっていました。
賀川先生は若い頃、肺病持ちの体で、本当に弱って青ざめた顔をしていました。しかし、
「俺はもうすぐ死ぬんだから」
と言って、貧民窟に入って、捨て子を次々に集めては育てていました。また行路病人の女を看取ってあげたりもしていました。
そんな中に、あるクリスマスの頃、明治学院時代の同級生が賀川豊彦のことを思い起こしました。
そうだ、あいつは自分が病気で、顔も真っ青だというのに、この寒い時にも寒さに打ち震えながら頑張っている。あいつに新しいメリヤスのシャツでもプレゼントしよう、と思って賀川豊彦にプレゼントしました。
「賀川君、これは君へのクリスマス・プレゼントだ。貧民窟の貧民にじゃなくて、君にやるんだから、これを着てどうか体を大切にしてくれ」
と言って渡したそうです。
ところが数日後、賀川豊彦は何だか言いにくそうに、彼にこぼしたそうです。
「どうも済まん。じつはあのシャツは、私が世話している病人に着せてやった。それがこの前死んだ。夜中に死んでな、お湯を沸かしてその体を拭きあげてやった。棺桶がないので、酒樽につめて葬った。かわいそうなことをしたが、せめて君のおかげで、きれいなシャツを着せてやれた……」
そう言われて、その友人はもう二の句が継げなかったそうです。このときの経験は、彼にとっても忘れられないものとなりました。
賀川先生も、この時のことを回想してか、後にこんな歌を詠みました。
「一枚の最後に残ったこの衣
神のためには
なお脱がんとぞ思う」
貧困に苦しむ人達のために、神様のために、自分の 全てをを捧げた人でした。
賀川豊彦は私がもっとも尊敬する日本の宗教人です。
私が幾度も涙を流したように、多くの人が彼の人生に感動した。
大正時代から昭和期まで、賀川の名前は有名でした。
映画にもなっている。
日本のみならず、海外にも日本の聖人として知られていた。
けれども今日、賀川の名前を知る人は少ない。
一般だけでなくクリスチャンの間でも、知る人は少なくなってしまった。
マザーテレサの名前は知っていても、賀川の名前は知らない。
それどころか、日本キリスト教団は1980年代に「賀川は差別論者であった」などと言う決議をしてしまった。賀川のその生き方を否定してしまったのでした。
なぜ、こんな事になってしまったのか?
ある時祈り求めた私はその所以を天に尋ねました。
それは「日本のキリスト教に十字架の失敗」があったから。
彼の・・・賀川豊彦の聖なる人生を辿りながら、その理由をじっくりと考えていきましょう。
参考サイト>