想いは力である、という事

          「想念の力」を実験する
 
20数年前、当時新宿駅に時折やって来る修行僧の一団があった。
彼らは別れ、一人づつ立っていた。
そこで私は思いついて、思念を送る実験をした。
すでに瞑想の訓練をしていた私はありありとイメージを造る事ができたので、私はイメージの虎を造り、それをその修行僧の一人にぶつけてみた。
すると彼は私の発した殺気にビクッとして振り向いた。
 
この手の実験は何度もやってみたが、厳密な自然科学の実験には成り得ない。
・・・・・・が、結論は明確である。
 
人が想う事は力である。
それは実現しようとする力なのだ。
ゆえに
エス様が言われたように「・・・誰でも情欲を抱いて女を見る者は、その女に対して心の中で姦淫の罪を犯した事になる」(マタイ5/27)という事になる。
 
 
 
          祈りの効用
 
こうしたことを知っていると、「祈りの効用」が理解できる。
我々はできない事が多分にある。
アフリカの子供達が飢えていると知っても直接的には何もできないかもしれないが、祈る事は可能である。
それは現実世界に対していくばくかの効果があるだろう。もちろんそれは微々たるものだろうが、多数の人々の想いは重なり、大きな力となりうる。
 
 
           身、口、意の三業を制する
 
又、我々は日々いろんな事を想うが、その中には悪いものもある。それを分別する事が必要である。
仏教では「身、口、意の三業を制する」と言う。行い、言葉、想いを支配せよと言う意味である。しばしば我々は無意識に邪な事を考えている事がある。
 
人生のドラマの中ですでに述べたような<カイン・コンプレックス>的感情が湧き起こってきても、それに支配されずに生きていくべきである。 http://blogs.yahoo.co.jp/kurodakango/4174557.html 
 
あるいは我々は「自分が何か、メシアのような偉大な人物ではないか」と妄想し、傲慢になっている事がある。
これはしばしばメサイヤ・コンプレックス>による自我肥大いう、今日ではおそらく、オームの麻原〇〇や幸福の科学の大川隆〇などが羅患している心の病である。
 
瞑想下では、イロイロな煩悩的な想いが湧き出てくるが、それは日常の中でも起こっている事である。ゆえにこうした煩悩を捨てていくのである。これは雑草を刈り取るのに似ている。