日蓮聖人物語の始まり

何かを変えたいと想っても何も変わらない事もある。
しかし、ある時期がくると自然に大きな変革の波がくる。
聖徳太子の時代の次に来た、大きな変化の時代は日蓮の時代である。
 
1192年、、瓦解しつつあった律令体制に代わり、日本で始めて武家政権が生まれ、封建社会がはじまった。鎌倉幕府は、仏教に篤い信仰を持った北条氏を執権とし、日蓮が生まれる前年の承久の乱(1221)で、密教に加持祈祷を命じた後鳥羽上皇を中心とする公家勢力に打撃を与え武家政権を確立し制度を整えたのである。
 
この時代もまた多いなる変革の時代である。
 
 
 
 
1222年2月16日、安房の漁師の子として生まれた日蓮は12才の時近くにある清澄寺に登り、住僧道善房について勉学した。後日、光日尼に与えた書によると、この年日蓮は、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者になしたまえ」と立願したと言う。満願の日に虚空蔵菩薩より知恵の宝珠を授けられたことを感得し、以来眼が開けて諸経の奥旨を究明することができたという。(『清澄寺大衆中』)
 16才で出家し、やがて師の許しを得て鎌倉、京を目指し、天台根本道場である比叡山にのぼり、ここを根拠にして三井寺高野山四天王寺など京都諸宗を経巡り、32才になるまで研鑽したのである。(『妙法比丘尼御返事』)
 日蓮の疑問は究極的には一点にしぼられていた。すなわち「諸宗、諸経あまたあるうち、どれが成仏の教え、すなわち仏教の眼目、真髄であり、道にかなうものであるか?」南都6宗は今やおびただしい腐臭を放ち、山門(叡山)寺門は葛藤し、諸大寺は崇乱し、僧侶は堕落、――仏説に言う「末世」、「末法」の世はことごとく眼前にある。これを救うべき教法はどれか?
 日蓮は修学の最初に天台の学を学び『法華経』が最勝であることを知っていた。
 そして諸宗諸経を学び、現実を直視しながら仏法の道理、仏典の証拠、社会の現実、すなわち理証、文証、現証の3証を具備するや否やが仏法の浅深、邪正判定の基礎になる事を徹見し、法華最勝の信念をつかんだのであった。
 

ある夕、若き日蓮は釈迦入滅直前に説いたと言う『涅槃経』に目を注いでいた。
その時、一文が目に飛び込んできた。「依法不依人」(人によるな、法によれ)その瞬間迷いは晴れたと言う。
 この話がルターの啓示と良く似ている事に最初に気づいたのはキリスト者内村鑑三である。(『代表的日本人』より)