キリスト教の断食とのつながりと相違点

キリスト教の断食は、ヨガの断食とは違って健康法ではなく、神様に出会う、あるいは悪魔と対決するためになされて来ました。
 
旧約聖書』の「出エジプト記」には、モーセが契約の言葉を板に書くとき、「彼はパンのたべず、水ものまなかった」(出エジプト34/28)と書かれています。
エステル記にも、断食について書かれた個所があります。モルデカイは、民族存亡の危機に際して断食して祈りました。
ユダヤ預言者の多くも象徴行為として断食を行いました。
 
またイエス・キリストはその公生涯のごく初めに、荒野で断食して悪魔の試みに会われたと書かれています。(マタイ4、マルコ1/12~13、ルカ4/1~13)
使徒行伝でも、パウロバルナバがアンティオキア教会から宣教のために送り出された時、断食したとあります。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事にあたらせるために』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(使徒行伝13/2~3)
 
こうした『聖書』の伝統の下、ローマ帝国時代聖アントニウスのような教父達は、一人荒野におもむき、悪魔と対決した━と伝承は告げています。
 
では仏教においてはどうでしょうか?
シャカは修行の最後に菩提樹の下のすわり断食し瞑想したと言う。
一人の女性がミルクをシャカに飲ませ回復したシャカはやがて悟った。その宇宙的啓示の中で彼は現代に残る教説を得たのでした。
 
現在のキリスト教徒や仏教徒が実際に断食しているか?否か?私は知りません。
キリスト教に関して言えば16世紀から新たなる流れを造ったキリスト教神秘主義は断食や瞑想を推奨し「キリストに習いて」という言葉を編み出した。イグナチスロヨラ聖テレジア十字架のヨハネプロテスタントではフォックス(クエーカー教の祖)エマヌエル・スヴェーデンボリなどはこの流れに入る。しかし「キリストに習いて」を最も体現した賀川豊彦を排斥した時、日本のクリスチャンは、おそらくキリストから大きく離れてしまったのではないだろうか。今日、日本のクリスチャンで断食しする者など少ないのように思う。
『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。』(マタイによる福音書6/1)
という御言葉を知る者は多いが、断食さえしないので偽善者にさえ成れないのでは無いでしょうか。
 
私にとって断食は神聖な存在に触れる事です。
沸き起こる欲望と闘い、あるいはひもじさを感じ、かって何度か体験した”飢え”を思い起こす。この飢えは今日まで地球上に生まれた多くの人が苦しんだものなのだから。
 イスラム教では今日半日だけ断食するダマダンが多いが、敬虔なイスラム教徒にとっても『ラマダン』の月というのは、唯一の神『アラー』に断食という修行を通じて貧しい人々の気持ちを身をもって経験し信仰をささげる、神聖な月である。毎年やってくるラマダンを心待ちにしている教徒も多いのと言う。
 
さて、3日目。
歩いているとスーパーからもれてくる果物や揚げ物の匂いが誘惑する。
あまり、スーパー付近を歩かないようにしようと思った。
身体が弱るほど、感覚は鋭敏になる。
以前断食した時には、隣の部屋の気配まで感じたものだ。
意識を神様に集中させなければならない。
答えを得るために。