僕と奴隷

僕と奴隷
 
ギリシア語のドゥーロスの訳で「僕」と「奴隷」は基本的に同じである。
 
エスの譬え(マタイ6・24、8・9)(ルカ17・7-10)では、僕は主人に対して排他的で絶対的な服従を義務つけられ、命じた通りに行うのが当然の事として求められた。僕は主人の意志と命令に対して、罰を身に招く以外に逆らう余地はまったくなかった。(マタイ25・26)
 
エスは譬えの中で、
全ての人と神との関係をこう説明しているのは注目に値する。
 
教会においては誰もがみな「神の子」として認められたのである。
(ガラ3・27 3・26)’(ピレ16)
 
罪の奴隷(ロマ6・17)(ヨハ8・34)(ヨハ8・36)
 
罪からの開放は、同時に
神への新しい服従の開始でもある(ロマ6・18)(14・7)
信徒は社会的にどんな立場であっても、主に従う事が求められている(エペ6・5)(コロ3・22)
 
神の前に差別はない(エペ6・8)(コリントⅠ7・22)
 
 
霊、魂(プシュケー)
 
霊的独立した(ペテⅠ 2・11)(黙示20・4)
 
ヨハネ黙示6・9、20・4)復活までの過度的状態
 
飲食の肉体維持に支えられ マタ6・25、ルカ12・20
共に消滅(マタ2・20)(マコ3・4)(使徒27・10)